バブル時代を代表する超名車
日本の自動車産業が一番輝いていたのは1980年代中盤から1990年代前半にかけてのバブル経済が華やかだったころだと思われます。
なにせ開発費がふんだんにあり、様々なチェレンジが失敗しても許された時代だったからです。
そんな1985年にあるプロジェクトが立ち上がります。日産7thスカイラインがデビューした年に発足しました。
それはスカイラインでレースに勝てず、つらい思いをしていた日産の悲願でもありました。
1980年代初めにRD30がデビューするも、なかなかレースシーンでは海外他メーカーのクルマには到底及ばず、負けが続いていた。
そんななかバブル経済も手伝って、開発費用をかけて一から作り上げたクルマ。
スカイラインR32 GT-Rです。
開発コンセプトは『究極のロードカー』でレースシーンでも圧倒的に勝てるクルマを目指して開発が始まりました。
7thスカイラインが出てまもなく始めるなんて、よっぽど経営陣が熱を入れていたことがうかがえます。
まず開発に際して指揮を執ることになったのは旧プリンス自動車の開発エンジニアです。
元々スカイライン、スカイラインGT-Rはプリンス自動車が開発したクルマです。飛行機メーカーだった中島飛行機から、いくつかの自動車メーカーが生まれた中の一つがプリンス自動車でした。
スカイラインはプリンス自動車の開発した車両でした。当時もレースシーンで他メーカーにどうしても勝ちたいとの思いから、レース用に開発したプリンスR380からエンジンを取り出し4気筒エンジンのスカイラインに6気筒エンジンを無理やり乗せたのが始まりのGT-Rでした。
ケンメリスカイラインから16年の時を経て開発作業が復活したんです。
やはりスカイラインはプリンス開発陣でないと本来の走りやエンジンを開発できませんよね。。プラットフォームも今までのものは一度捨て、一から開発されることになりました。
なので、出来上がった全長はそれまでのスカイラインより100mm以上短いものとなり、ハコスカと同じ程度の4500mmに縮小されました。
エンジンは『RB26』ですが、これはGT-R専用に開発されたもので、他のRBエンジンとは全く互換性がないそうです。開発を重ねていきますが、ドイツニュールンベルクのサーキットで行われたテスト走行では海外他メーカーのクルマはビュンビュン走るにもかかわらず
気合を入れて開発を始めたGT-Rは1週も走れずにオーバーヒートしてリタイヤだったそうです。
そんな状況から、通常はあり得ない開発設計陣とテストドライバー陣が意見を出し合って連携し一体となって、新しいGT-Rを作り上げていったんです。
エンジンはRBエンジンですが、アルミグロックを使うことで軽量化を図り、アテーサと言われるトラクションシステムを採用しました。
これは後輪のトラクションが限界になると前輪へとトラクションを分配する機能で4WDの理想のトラクションを実現する装置だったんです。また、当時はまだ珍しいスーパーハイキャスまで搭載していました。4WSつまり後輪まで角度を変えることが可能なシステムです。
16年ぶりの復活
このように8thGT-Rは強力なエンジンと魔法のようなトラクションシステムを手に入れ、自在に曲がる仕組みまで搭載することにより基本コンセプトを忠実に守り、ロードでもレースシーンでも大活躍するクルマへと変貌を遂げていきます。
開発から4年後の1989年バブル絶頂期にスカイラインGT-Rはデビューするのです。当時はセンセーショナルな1台でした。なにせ自主規制280psに加えGT-Rの称号は16年ぶりとなるものでした。
クルマのデザインも今までの直線を基調にしたものとは全く別の丸みを適度に帯びている今までにはないスカイラインでした。
GT-Rはブリスターフェンダーを備えており、幅広いタイヤを装着しても5ナンバー枠に収まるサイズとなっていたのもすごいことだったんです。
そしてスカイラインのシンボル4つのテールランプを全ラインナップに採用したのもこの車種だけだったんです。
マッチョなだけでなく少しコンパクトになり、エンジンは直6ツインターボ280psのハイパワー、しかも本気でレース用にチューンナップすれば600psまでパワーアップするキャパシティの広いエンジン。
しかもそれが規定内で無理して壊れるということがない丈夫さも圧巻でした。究極のロードカーを開発するまさにこのパワーでも街中を走って普通に走れるところに懐の広さを感じますよね。
どれだけすごかったか
そして本気でレースに向かえば当時敵なしの連勝続きで、1989年にデビューして目標だったグループAではレースがなくなる1993年まで負けなしで連勝を続けたんです。
まさに平成の名車です。そんな名車がアメリカの25年ルールが適応できるころに日本からアメリカにバンバン輸出されているのです。
日本の名車は日本に留めておいてもらいたいものですが。。欲しい海外の人がいるのもわかる気がします。
値段的には海外製に比べ元々安価なため2015年当時はまだ100万円前後で手に入れることができる車体が結構ありましたね。。
そのころ買っておけばよかった。。なんて思う人も結構多いことと思います。
日産もレストア事業を展開し始め外装パーツやハーネス系、マフラーなど、手に入れることが難しかったパーツも手に入れることが可能になりました。
約80種類に及ぶパーツがメーカーから販売されるようになりました。これは旧車好きには喜ばしいことです。
ともあれ、しばらくは部品で困ることはなさそうですが、良い程度の車体が国内から減って、さらに価格が上昇していくことが残念なのと同時に海外に認められる日本車として、少し誇りに思いせんか。。?
当時乗りたかった名車はいつまでも名車で30年経っても高嶺の花なのが残念です。
本気でお考えの方はパーツの出ている今のうちに手に入れて本気のレストアを施し一生ものとして長い付き合いをしていくのもアリなんだと思います。
本日はバブルの超名車のお話でした。
本日も最後までお読みいただき
ありがとうございました!